ロシアによるクリミアの併合, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=2953671 / CC BY SA 3.0
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2014年クリミア危機 」 ロシアによるクリミアの併合 クリミア(濃緑)とウクライナ(薄緑)、ロシア(薄赤) ロシアによるクリミアの併合(ロシアによるクリミアのへいごう)は、国際的にウクライナの領土と見なされているクリミア半島を構成するクリミア自治共和国・セヴァストポリ特別市をロシア連邦の領土に加えるもので、2014年3月18日にロシア、クリミア、セヴァストポリの3者が調印した条約に基づき実行された。
1991年のソビエト連邦崩壊・ロシア連邦成立後初の、ロシアにとって本格的な領土拡大となった。
クリミアとセヴァストポリにおける住民投票、独立宣言、併合要望決議、そしてロシアとの条約締結という段階を踏んで併合宣言が行われたが、国際連合やウクライナ、そして日本を含む西側諸国などは主権・領土の一体性やウクライナ憲法違反などを理由としてこれを認めず、併合は国際的な承認を得られていない。
ケルソネソスの遺跡と聖ウラジーミル大聖堂。
ウラジーミル・プーチン大統領は3月18日に演説で988年のクリミアでのウラジーミル聖王の洗礼にまで言及した。
オスマン帝国の宗主下にあったクリミア・ハン国をロシア帝国に併合した、エカテリーナ2世。
クリミア・ハン国はジョチ・ウルスの後裔国家としては最後のもので、そのロシアによる滅亡は「タタールのくびき」の終焉を意味した。
ロシアは、988年に全ルーシの共通の祖先であるウラジーミル1世が洗礼を受けルーシのキリスト教化の端緒を開いたのは、当時東ローマ帝国の支配下にあった古代ギリシャ都市ケルソネソスであったとして、クリミアが「ロシア固有の領土」であることを主張している。
一方、ウクライナは、モスクワに関するはじめての記述は1147年であるとし、そもそもキエフ・ルーシをロシアの起源であるとの立場を認めない立場を採っている。
国家起源は、ロシア史とウクライナ史の歴史観の相違の見られる重要点の一つである。
キエフ大公国と東ローマ帝国は、13世紀前半のモンゴルのルーシ侵攻によってクリミア半島における支配権を失った。
1239年から、クリミアはモンゴル帝国の分枝であるジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)のテュルク=モンゴル系諸部族(タタール)の支配下に置かれた。
クリミアにいたタタールの諸部族は、1441年にチンギス・カンの末裔(バトゥの弟トカ・テムルの子孫)であるハジ・ギレイをハンとしてクリミア・ハン国を形成した。
クリミア・ハン国が形成されたのと同じ15世紀頃、モスクワ大公国、リトアニア大公国とハン国との間の緩衝地帯となったステップ(現在のウクライナとロシアの南部)に住み着いた正教徒の人々が、コサック(コザーク、カザーク)と呼ばれる武装集団を形成した。
1550年代、ウクライナ・コサックのヘトマン、ドミトロ・ヴィシネヴェツキーは、コサックを軍事組織化し、ドニエプル川の中洲にタタールの侵入に対抗するための要塞を建設した。
これにより形成されたザポロージャ・シーチのコサックは、クリミア半島やオスマン帝国への襲撃を行うようになった。
コサックがポーランド・リトアニア共和国からの自立を目指したフメリニツキーの乱(1648年-1657年)では、ヘトマンのボフダン・フメリニツキーはクリミア・ハン国と同盟して挙兵した。
1682年、第二次ウィーン包囲により大トルコ戦争が開始されると、ロシアも参戦して露土戦争(1686年-1700年)を有利に進め、1700年にコンスタンティノープル条約が締結された。
1774年、露土戦争(1768年-1774年)に敗れたオスマン帝国は、キュチュク・カイナルジ条約でクリミア・ハン国の宗主権を放棄させられ、名目上独立したクリミア・ハン国はロシア帝国の影響下に入った。
1778年にはロシアによって正教徒の住民がクリミアからアゾフ海北岸のマリウポリ周辺に強制移住させられた。
そして1783年、ロシア帝国はキュチュク・カイナルジ条約を破棄してクリミア・ハン国を併合した。
当時の皇帝エカテリーナ2世の寵臣グリゴリー・ポチョムキンの主導でクリミア半島とその北のノヴォロシアと呼ばれる地域の開発が推し進められた。
このときには開発のために移住させられたものの多くはウクライナ・コサックであった。
南下政策を推し進めていたロシア帝国にとってはクリミアは格好の不凍港の建設地でありセヴァストポリ要塞などが建設されると...
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