クリミア半島, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=57272 / CC BY SA 3.0
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クリミア半島
クリミア半島(クリミアはんとう)、または単にクリミア(, , , )は、黒海の北岸にある半島。面積は2万6844km、2014年1月1日時点の人口は235万3100人。
1991年の独立以来ウクライナに属していたが、2014年のクリミア危機でロシアへの編入の是非を問う住民投票が行われて以降、帰属についてロシアとウクライナの間で係争状態にある。ロシアは自国に編入したと主張し、実効支配しているが、ウクライナではクリミア編入はウクライナ憲法に違反しているとして現在もウクライナの領土の一部であると主張し、日本を含め国際社会の多くが支持している。
「半島」という単語を用いてクリミア半島と呼ぶ場合と、単にクリミアと呼ぶ場合がある。
クリミア半島は、英語で、ロシア語で、ウクライナ語で、クリミア・タタール語のキリル文字表記で、同じくラテン文字表記で。
クリミアは、英語で、ロシア語で、ウクライナ語で、クリミア・タタール語のキリル文字表記で、同じくラテン文字表記で。
日本語で一般的な名称となっている「クリミア」は英語の( )に由来する。
このほか、ロシア語( )またはウクライナ語( )のカタカナ表記からクルィム、ロシア語の日本語表記の異形またはドイツ語の( )からクリムと呼ぶこともある。
これらのヨーロッパ諸言語に基づく名称は、クリミア・タタール語を含むテュルク諸語による古くからの名称 / Qïrïm / ( )に由来する。クルムは、もともとはキプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)時代のクリミア半島の中心都市(現在のスタールイ・クルイム)の都市名で、オスマン帝国がクリミア・ハン国を支配していた時代に半島全体の名称となった。クルムの語源は確かではなく、古テュルク語で「丘」、「尾根」、「山の頂」などを意味した“*Kɨr”という単語にあてる説、黒海北岸の古代地名である「キンメリア」と関係あるとする説などがある。
ヨーロッパでは、古くはギリシア語の地名(タウリケ)に由来するタウリカ、タウリスと呼ばれていた。この名前は古代にクリミア半島に居住していたスキタイ=キンメリア系民族のタウロイに由来する。ストラボンとプトレマイオスは、現在のケルチ海峡を「ボスポロス・キンメリオス」(キンメリア海峡)、タウリカの中心都市を「キンメリウム」、半島そのもの又は最東端の岬のことを「プロモントリウム・キンメリウム」(キンメリア岬)とキンメリア人と関連づけて呼んでいる。
英語でのクリミア系統の名称の用例は、18世紀にクリミア・ハン国を指してクリム・タルタリー(Crim Tartary)としたものがある。英語のCrimeaのつづりはイタリア語(少なくとも17世紀にはこの名称が使用されていた。)由来で1780年代に使われ、19世紀を通じて英語の伝統的な名称であったタウリカやタウリスに置き換わった。
ロシア語では、古名であるタウリカが、18世紀末にロシア帝国が併合したクリミア半島にタヴリダ州を設置したことで復活している。
タヴリダの地名はソ連以降、公式の行政地名としては用いられていないが、クリミア半島に所在する機関や団体の名称に用いられることがあり、タヴリダ国立大学、SCタフリヤ・シンフェロポリなどがある。
古代には、キンメリア人とスキタイ人の居住地であるとともに、ギリシア人の植民都市が建設された。この時代の主要都市であるケルソネソスは現在のセヴァストポリの近郊にあった。
その後、ローマ人、ゴート人、フン人、ブルガール人、ハザール人、キエフ大公国、ビザンティン帝国、キプチャク人などによる支配を受けた。13世紀にはモンゴルの征服を受けてモンゴル帝国の分枝であるジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の支配下に入り、沿岸の一部がヴェネツィアとジェノヴァの統治下におかれた。
1443年から1783年まで、ジョチ・ウルスの継承政権であるクリミア・ハン国がオスマン帝国の属国となって存続した。1783年にロシア帝国のエカチェリーナ2世がクリミア・ハン国を併合した。1853年から1856年にかけてはフランス、イギリス、オスマン帝国およびサルデーニャ王国の同盟軍とロシア帝国が激突したクリミア戦争の主要な戦場となった。
1917年に始まるロシア内戦では、クリミアは白軍(反革命側)に占拠されていた。白軍が赤軍によって駆逐された後、クリミアはソビエト連邦の一部となり、1921年にクリミア自治ソビエト社会主義共和国が置かれた。第二次世界...
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