ポーランド・ソビエト戦争, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=364194 / CC BY SA 3.0

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ポーランド・ソビエト戦争

ポーランド=ソビエト戦争(ポーランド=ソビエトせんそう、、、)は、第一次世界大戦後の1919年2月から1921年3月にかけてウクライナ、ベラルーシ西部、ポーランド東部を中心に行われたポーランドとボリシェヴィキ政府のあいだの戦争。ロシア革命に対する干渉戦争の一環ともとらえられる。また、日本語では慣用的に「ソビエト・ポーランド戦争」、「ポーランド・ソ連戦争」、「ソ連・ポーランド戦争」などとも書かれる。なお、実際に戦争が行われたのはソビエト連邦成立(1922年)前である。

第一次世界大戦直後のロシアは、ロシア革命に対する干渉戦争と内戦の影響により、混沌とした情勢にあった。パリ講和会議の結果により、ポーランド分割以来のロシア国家による支配から独立を果たしたポーランドは、民族的・宗教的影響やかつてのポーランド・リトアニア共和国の領域や人口動態などからベラルーシ西部やウクライナ西部の土地に野心を持っていた。このため、講和会議で得られた領域をさらに東方に拡大し、分割前(1772年8月5日以前)の領土を回復し1791年以後のポーランド国家の版図を復活させるため、ロシア内戦の混乱に乗じてソ連に侵攻した。

1920年当初、ポーランド軍はキエフを占領するなど大きく進撃したが、その後ポーランド軍は政治的な理由によりフランスの軍事顧問団による作戦を採用すると騎兵の機動力を生かせなくなりソ連を攻めあぐね、1920年4月以降は赤軍が反撃を開始、6月にはワルシャワを包囲した。しかし、ユゼフ・ピウスツキが策定した騎兵の大群による長距離高速度行軍(フランスの軍事顧問団は反対していた)を用いた乾坤一擲の大機動作戦が大成功し、これによりミハイル・トゥハチェフスキー率いる赤軍はほぼ全軍が包囲殲滅の危険に晒されて崩壊、敗走を開始した。これは後に「ヴィスワ川の奇跡」と呼ばれる。この大逆転劇により8月末から赤軍は撤退、ポーランド軍はソ連軍に対する猛烈な追撃に転じた。赤軍は東方より体勢を立て直そうとするが、ポーランド軍機動部隊はこれらの試みをも粉砕した。

進撃を続けるポーランドは支配圏をミンスク近辺まで到達させたものの、財政難の危険により、ソ連の提案で10月に停戦に応じることとなった。1921年3月に講和条約が結ばれ、これによりポーランドはヴィリニュス(ヴィルノ)を中心としたヴィルノ地方などリトアニア中部とリヴィウ(ルヴフ)を中心としたガリツィア地方などウクライナ西部を併合し、東方領土を正式画定した。

1918年に第一次世界大戦が終了すると、東欧は大きな変革を迎えることとなった。ドイツの敗北により、ドイツによる東欧の緩衝国家建設計画は不可能となり、ロシアも革命の影響により他国への干渉能力を失っていた。このため、ヴェルサイユ条約により誕生した東欧の新国家は、弱体な小国家が多かった。その中で、ポーランドは例外的・相対的に大国となりえた。また、かつてポーランド王国(ポーランド・リトアニア共和国)として東欧に広大な領域を保有していたが、ポーランド分割によりその領土は失われたため、領域復活にかける願望を持っていた。1918年に再独立を果たす際にドイツ、オーストリア・ハンガリー帝国、ロシアなどから領土を奪ったこともその一環だったが、東部国境は交渉すべきロシア政府が不在ということもあり、この時点で未確定であった(ただし、1919年12月には境界としてカーゾン線の提案がなされている)。

ポーランドはユゼフ・ピウスツキを中心に、かつてのポーランド・リトアニア共和国領域の復活と、ポーランドを中心とした反共国家連合によってソビエト連邦(ソ連)および、ドイツ革命と前後して労働運動が激化し共産主義革命の瀬戸際にあったドイツと対抗する方針を持っていた。ただし、ポーランドはソ連の政体そのものへの干渉やロシア地域の征服などの意図は持っておらず、旧ポーランド王国の版図全体における自らの国家建設とその思想的・領土的防衛が第一であった。しかしながら、ピウスツキの民主主義、自由主義、多民族主義(文化多元主義)の並立理念すなわち旧ポーランド・リトアニア共和国(の1791年5月3日憲法)の理念の復刻である「ヤギェウォ理念」に対するソ連の警戒感情は(この理念がまさにソ連の革命にとっての反...

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