ある日に、自分が働いている会社が順調な業績であるにも係らず、ある日「突然の倒産発表」を新聞で知った時に、貴女だったらどうします?。

特に支店の女子社員は地元出身者で素直で実直な女の子だっただけに、また楽しい職場でも
あっただけに、尚更、本社の「飛ばし事件で企業破綻に追い込んだ事業法人部と一部の経営者達」を恨らみました。この映像の笑顔の女子社員は、その後の破綻の翌日からの続く「破綻処理」は視聴者の皆さんの想像をはるかに超える「過重労働」と「心苦」が延々と続き、夜も眠れない地獄の日々が延々と続いたのです。

山一証券長崎支店は市街地のど真ん中でひと際目立つ自社ビルでした。1階は店頭、2階は営業場、3階はミディと呼ばれる契約社員の営業場、4階は会議室、5階は和室の茶室、地下は社員用のゴルフ練習場と卓球室がありました。社員用のゴルフ練習場を所有している支店は恐らく長崎支店だけだったでしょう。

昭和29年に社長に就任した大神一氏が山一証券を業界トップの座に引き上げ、戦後の日本経済の復興を資金面から牽引し、多くの企業群を育て上げ、日本経済復活の原動力となり、昭和32年の神武景気、同35年の岩戸景気を創出した。

この頃、就職活動で流行った言葉が「銀行よ、さようなら、証券よ今日は」でした。優秀な学生は三菱銀行等の都市銀行へ就職するのを止め、証券会社へ就職した。証券会社はボーナスを年に4回も支給するほど業績が絶好調となり、これで山一証券は超優良企業となり法人に強い「法人の山一」を確固たるものにしたのです。この景気は同39年の東京オリンピックまで続きました。しかし東京オリンピックが終わると翌年には大不況が来て、山一証券の大神時代は終わりを告げます。

大神氏が長崎市出身だったため、長崎支店を建設する際に地下に社員用のゴルフ練習場と卓球室まで設けたました。大神氏は長崎に帰郷すると、長崎の財界人をこの5階の和室の茶室に招待して、茶を楽しんだと聞きました。だからでしょうか、豪華な茶室が5階にありました。これだけの支店は山一の支店ではこの長崎支店だけっだったでしょう。

尚、当時の社員は思案橋の銅座にあったグランドキャバレー「銀馬車」へ行くと、当時の山一の社員バッチを付けた社員が、そのキャバレーに入ると山一証券の社歌を演奏して迎えてくれたと聞きます。驚きと同時に余りの贅沢が原因だったか知れませんが、昭和40年証券不況では山一は経営危機に遭遇、田中蔵相の日銀特別融資で救われましたが、大神社長は退任させられ、興銀から日高社長を迎えて、奇跡の復活をしたものの、今回の第2回目の危機は経営陣に恵まれず、日銀の救済もなく倒産しました。

この「銀馬車」はその後、ボーカルを歌っていた前川清の「内山田洋とクールファイブ」が専属歌手として活躍し人気を博しました。ここで歌っていた「長崎は今日も雨だった」がヒットして、やがて東京に進出して一躍、一流歌手へと昇りつめたのです。

山一証券は破綻から20年以上経過しました。若い社員はもう「山一証券」の名前さえ知りません。「山一証券」の当時の「業務内容」を永遠に記憶として残し、日本経済の平成の「記憶遺産」とする為に、また山一証券が日本の金融不況の「生贄」にされて、潰された事が、金融機関の合従連衡が一気に進む原因となり、特に銀行の数は驚くほど減り、今も長ったらしい名前の銀行になっています。「山一証券自主廃業」が今の日本の金融秩序を齎したという事実を若い人達に理解していただくために投稿しました。

若い人に山一証券が超一流企業であったということを知って頂く証明は
新年の伊勢神宮への企業祈願の「一番札」を所有していた事からも推察出来ると思います。「伊勢神宮一番札」というのは数多くある日本の企業が伊勢神宮に新年の初参拝する際に一番初めにその「お祓い」を受けられる権利の事です。山一倒産後は当時の松下電器がその「一番札」を引き継ぎました。

顔出しして頂いた出演者も「平成時代の記憶遺産」として50年・100年後に遺る、当時の力強い日本経済の貴重な映像として、また、苦しかった頃の若い自分の映像に合えるので、懐かしんできっと許して頂けるでしょう。出演者の皆さんには謹んで感謝を申し上げます。

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